2012年05月06日
【観光】福沢諭吉旧邸を紹介します。
こんにちは。
THE GRAND PLAZA NAKATSU HOTEL(グランプラザ中津ホテル)の有吉です。
いよいよGWも最終日となってしまいましたが、このブログを見られているみなさんも
きっと、いろんな観光地に行かれたのではないでしょうか。
つい昨日、久々に福沢諭吉旧邸に行く機会がありました。

市内にいると、地元の観光名所には、なかなか行く機会がありませんし、案内版にまで
目を向けませんが今日は、その現地案内板を基に中津市が誇る観光名所の一つ、
「福沢諭吉旧邸」をご紹介したいと思います。
福澤諭吉 天保5年12月12日(1835)~ 明治34年2月3日(1901)
中津藩士、啓蒙思想家、適塾第10代塾頭、慶應義塾創設者
豊前中津藩は、江戸中期から明治にかけて多くの蘭学者を輩出しました。
その背景には藩をあげて蘭学研究に大きな支援を与えたことにあります。福沢諭吉の誕生も、
この伝統と土壌があったためででしょう。
福沢諭吉旧宅 *現地案内板より
福沢諭吉は、1歳と6ヶ月の時父が急死したため、天保7年(1836)秋、
母子六人で大坂の中津藩蔵屋敷から藩地の中津に帰って来ました。最初の住んだ家は残って
いませんが、この宅跡にその家がありました。
今残されている旧居は、後年に移り住んだものです。
しらみ取りの話 *現地案内板より
少年諭吉の母お順さんはまことに心のやさしい情ふかい方だったそうです。
このころ中津の下辺に家は大へん貧しくいつもボロボロの着物を着て髪の毛はボウボウとなった
知恵おくれの女の子がいました。母はその娘を見ると毎度のように庭に呼び入れて莚(むしろ)
の上に坐らせて頭の虱を取ってやるのでした。私は母に命ぜられてその虱を石の上で五十匹、
多い日は百匹もつぶすのです。それがすむと母はこの娘に虱をとらせて貰ったお礼にと握り飯を
作ってあげるのです。娘はおいしそうに食べてうれしそうに帰って行くのでした。
刺客に狙われた話 *現地案内板より
明治3年10月、母と姪(いち・兄三之助の長女)を迎えに中津に帰った時の事です。
中津の若い藩士のなかには、諭吉を西洋かぶれと嫌い暗殺しようと狙う者がいました。その動きを
察知した服部五郎兵衛(福沢家の親戚)は夜福沢家を訪問し、いつまでも酒を飲みながら夜中の
1時を過ぎても話し込んでいるので、諭吉が寝入るのを狙っていた刺客はその機会を逃し、諭吉は
命拾いをしました。
土蔵の話 *現地案内板より
土蔵は、福沢諭吉が少年の頃、自分で手直しをし長崎へ遊学(西暦1854年)をする19才ごろ
まで、米をついたり2階の窓辺で学問を続けた場所です。

中津市留守居町にあるこの旧居は明治の初め福沢諭吉先生の家族が東京に転居した後、
渡辺氏(親戚)が住んでいました。次いで旧藩主奥平家の所有となり明治43年同家より市に
寄付され、その後中津市が管理しています。本公園の面積は5200平米で昭和46年本旧居
ならびに前側の宅跡が国史跡文化財の指定を受けました。
白石照山先生と福沢諭吉 *現地案内板より
福沢諭吉は十四才のころから照山の私塾晩香堂に学び、初めて学問の手ほどきを受けました。
十九才のとき、長崎に出て蘭学を修め、その後大坂の適塾に入りました。
安政三年、兄三之助の死後、家計の後始末をしたあと、再び上坂し、適塾での勉強を続ける決意を
して父の蔵書を売ろうとしました。しかし、中津では買う人がなく、当時臼杵藩におられた
照山先生の仲介で臼杵藩が十五両で買い上げました。お陰で諭吉は中津を出て適塾での勉強を
続けることが出来たのです。このことがあってから照山先生と福沢諭吉との師弟の情は深くなり、
照山先生が亡くなるまで続きました。
・・・いかがでしたでしょうか。
地元の素晴らしい観光資源は、まだまだ沢山あります。
より多くの方に知って頂き、より多くの方が中津市に観光に来て頂けるようにしたいですね。
THE GRAND PLAZA NAKATSU HOTEL公式facebookページ
http://www.facebook.com/GRANDPLAZA.jp
THE GRAND PLAZA NAKATSU HOTEL(グランプラザ中津ホテル)の有吉です。
いよいよGWも最終日となってしまいましたが、このブログを見られているみなさんも
きっと、いろんな観光地に行かれたのではないでしょうか。
つい昨日、久々に福沢諭吉旧邸に行く機会がありました。

市内にいると、地元の観光名所には、なかなか行く機会がありませんし、案内版にまで
目を向けませんが今日は、その現地案内板を基に中津市が誇る観光名所の一つ、
「福沢諭吉旧邸」をご紹介したいと思います。
福澤諭吉 天保5年12月12日(1835)~ 明治34年2月3日(1901)
中津藩士、啓蒙思想家、適塾第10代塾頭、慶應義塾創設者
豊前中津藩は、江戸中期から明治にかけて多くの蘭学者を輩出しました。
その背景には藩をあげて蘭学研究に大きな支援を与えたことにあります。福沢諭吉の誕生も、
この伝統と土壌があったためででしょう。
福沢諭吉旧宅 *現地案内板より
福沢諭吉は、1歳と6ヶ月の時父が急死したため、天保7年(1836)秋、
母子六人で大坂の中津藩蔵屋敷から藩地の中津に帰って来ました。最初の住んだ家は残って
いませんが、この宅跡にその家がありました。
今残されている旧居は、後年に移り住んだものです。
しらみ取りの話 *現地案内板より
少年諭吉の母お順さんはまことに心のやさしい情ふかい方だったそうです。
このころ中津の下辺に家は大へん貧しくいつもボロボロの着物を着て髪の毛はボウボウとなった
知恵おくれの女の子がいました。母はその娘を見ると毎度のように庭に呼び入れて莚(むしろ)
の上に坐らせて頭の虱を取ってやるのでした。私は母に命ぜられてその虱を石の上で五十匹、
多い日は百匹もつぶすのです。それがすむと母はこの娘に虱をとらせて貰ったお礼にと握り飯を
作ってあげるのです。娘はおいしそうに食べてうれしそうに帰って行くのでした。
刺客に狙われた話 *現地案内板より
明治3年10月、母と姪(いち・兄三之助の長女)を迎えに中津に帰った時の事です。
中津の若い藩士のなかには、諭吉を西洋かぶれと嫌い暗殺しようと狙う者がいました。その動きを
察知した服部五郎兵衛(福沢家の親戚)は夜福沢家を訪問し、いつまでも酒を飲みながら夜中の
1時を過ぎても話し込んでいるので、諭吉が寝入るのを狙っていた刺客はその機会を逃し、諭吉は
命拾いをしました。
土蔵の話 *現地案内板より
土蔵は、福沢諭吉が少年の頃、自分で手直しをし長崎へ遊学(西暦1854年)をする19才ごろ
まで、米をついたり2階の窓辺で学問を続けた場所です。
中津市留守居町にあるこの旧居は明治の初め福沢諭吉先生の家族が東京に転居した後、
渡辺氏(親戚)が住んでいました。次いで旧藩主奥平家の所有となり明治43年同家より市に
寄付され、その後中津市が管理しています。本公園の面積は5200平米で昭和46年本旧居
ならびに前側の宅跡が国史跡文化財の指定を受けました。
白石照山先生と福沢諭吉 *現地案内板より
福沢諭吉は十四才のころから照山の私塾晩香堂に学び、初めて学問の手ほどきを受けました。
十九才のとき、長崎に出て蘭学を修め、その後大坂の適塾に入りました。
安政三年、兄三之助の死後、家計の後始末をしたあと、再び上坂し、適塾での勉強を続ける決意を
して父の蔵書を売ろうとしました。しかし、中津では買う人がなく、当時臼杵藩におられた
照山先生の仲介で臼杵藩が十五両で買い上げました。お陰で諭吉は中津を出て適塾での勉強を
続けることが出来たのです。このことがあってから照山先生と福沢諭吉との師弟の情は深くなり、
照山先生が亡くなるまで続きました。
・・・いかがでしたでしょうか。
地元の素晴らしい観光資源は、まだまだ沢山あります。
より多くの方に知って頂き、より多くの方が中津市に観光に来て頂けるようにしたいですね。
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Posted by グランプラザ中津ホテル & THE WEDDING PLACE Nakatsu. at 14:32│Comments(0)
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